自分の勤務する某私立大学の様子を素材に、アラフォー世代教員の立場から、最近の大学改革の動向や大学教育の在り方について考察するブログ。不定期更新、こちらからの一方的な情報発信のみ。


by gogo0618

カテゴリ:私の意見( 25 )

うちの大学でも、数年前に設置した新しい学科を含め、私の所属学部をもう一度再編しようという計画が持ち上がっています。これは前にも書いた、まるでペットフードのラベルをはりかえて「おいしくなりました」というような、そんな戦略に近いところから出発しているのですが。
もちろん、これにともなって教員配置を見直したり、カリキュラムの変更が起きたりするわけですし、そのために新たな会議を開いたり、書類を書くことも増えたりするわけです。次々に改革をすることによって、教員にさらなる負担増を呼び起こすというのは、こういうことですね。
そして、その改革が度重なってくる、つまり、朝令暮改的に大学改革をやっていると、その改革のリーダー的存在の教員ほど疲れてきます。あるいは、せっかく精魂こめて作り上げてきた新しい学科やカリキュラムを、また何年かたてばすぐに見直し、改変するという作業をしていると、だんだん「まじめにやってるのがばかばかしくなる」という、教員の気分も生まれてきます。
こうして、朝令暮改的な大学改革を続ければ続けるほど、大学教員の意欲は低下し、まともな教員ほど疲れ果てて仕事ができなくなり、その結果、ハデな広報・宣伝のわりには、各大学の中身の面での活性化はますます遠のく、ということにもなりかねません。
こういう大学改革のあり方は、ほんと、さっさとやめてほしいですね。
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by gogo0618 | 2007-06-17 16:28 | 私の意見
安倍政権が鳴り物入りで始めた「教育再生会議」ですが、どうやらまたほんとうにしょうもない大学・大学院改革の提案を出したようです。
「教育再生会議」は今後、大学・大学院に競争的秩序を導入したいようですが、それってこの10年くらいの日本の大学改革のなかで、ずっとやりつづけてきたことではないですか。
その結果が、今の日本の大学・大学院のこの迷走ぶり。

はっきりいって、「学生が確保できりゃなにやってもいい」とか、「経営が維持できるのであればなんでもあり」みたいな、そういうむちゃくちゃなことを生み出す大学改革の、いったいどこがいいのか。
「美しい国」を目指したり、「科学技術立国」を目指したりすることを本気で考えるのであれば、まずは「これ以上の大学いじりはやめる」ということから始めるべきではないのか。

そのときの政権中枢にいる人間が、
自分の人気取りや気分しだいで、
大学を含めた教育をいじくりまわすのは、
もうやめてほしい。


それが、安倍政権に対して私のいちばん言いたいことです。
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by gogo0618 | 2007-06-04 20:36 | 私の意見
ようやく私の勤務校の上層部も、「これ以上、個々の教員に無理な負担をかけていると、大学の活性化にはつながらない」ということに気づいたようで、今後、カリキュラム改革などを通じて、個々の教員の負担減などにつとめていく方向に動き始めたようである。
それはそれで、基本的にはまちがっていないと私は思う。

しかし、である。
カリキュラム改革をあらためて今からするということは、そのためにまた準備会合が何度か開かれる。
その準備会合の結果をふまえて、あらたなカリキュラム原案を組む。
それを学内の諸手続きをふまえて、全学の方針にする。
全学の方針ができれば、今度は文部科学省に申請または届出をする。
それと同時並行で、新カリキュラムに変更した旨の入試広報関係の取組みを強化する必要がでてくる。
そして、旧カリキュラムと新カリキュラムの両方の学生がいる間の移行措置や、その間の調整作業の仕事がいろいろ出てくる。

という具合に、何かひとつ問題点を改善しようとすると、次々にやるべき仕事が増えてくる。
また、あまりモノを考えずに導入した改革案の問題点を改善しようとする作業が、次の問題点を生み出し、負担を増やしていくことになりかねない。
そして、改革に継ぐ改革のなかで、だんだん教員が「改革疲れ」とでもいうべき疲弊状態に陥り、大学の活力はますます衰えていくことになる。

それにしても、こういう大学運営をやらざるをえない環境を作ったのは誰なのか?
大学上層部としても、こんな運営、どこまで本気でやりたいと思っているのだろうか。
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by gogo0618 | 2007-05-27 20:28 | 私の意見
昨日、私の今年度の給料について、本俸や諸手当、住民税や所得税の額、共済組合の掛け金などを含め、自分で計算してみた。
毎月の自動積立貯金の額があるのと、税源委譲の関係で住民税の額が変わるのとで、結果的には今年度の昇給があっても、昨年度となにも変わらないということがわかった。
しかし、昨年度と比べて、今年度は担当科目も学内業務もまた増えた。
とすれば、実質的に給料目減り、労働強化の傾向といわざるを得ない。
うちの大学は、教員の場合、年功序列制の基本給部分が確か7~8割くらいに、諸手当などの職務に応じた部分が2~3割という形での給与体系だが、これだと30代くらいの若い層の教員ほど、いろいろ仕事をやらされているわりには給与が少ないという形になる。
これでせめて休暇が自由に取れるとか、なんらかのメリットがあればまだ許せる。
しかし、学内業務も担当科目も増えれば、休みたいと思っても休めないし、グチも言ってられない。
かといって、私は年配の教員の給料を削れ、ということをいうつもりもない。それをいうと、先々自分たちのクビをしめていく。自分たちだって勤続し続ければいつか年配の教員になるのだから、そういうことはあまり言いたくない。
しかし、私の同僚教員、特に同世代教員のなかには、露骨に「働かない年配教員を辞めさせろ」とぼやいている人もいる。一方で「そういうなよ」と彼らにいいつつ、「気持ちはわからなくもない」と思う自分がいる。
こういう不均衡が学内的に累積されていることを、大学経営陣や年配の教員はどう考えているのだろうか。
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by gogo0618 | 2007-05-18 10:58 | 私の意見

きちんと雇用条件を守れ

大学の経営者は、きちんと教員の雇用条件を守れ。それは専任・非常勤を問わず。

ある意味、このブログで私がくりかえし訴えていることは、そのことにつきると思います。
たとえば、ある大学では「最低週3コマ、平均週5コマ」が専任教員の授業負担の基準であるならば、その大学で週9コマとか10コマを負担している教員が何人もいて、ようやくカリキュラムがまわることが常態化していれば、それはそういう条件で教員を働かせているほうがおかしいでしょう。
あるいは、何らかの分野での仕事に限定して採用したはずの教員に、追加で他の業務をさせるのであれば、それ相応の手当を支給するなり、他の学内業務を軽減するなどの配慮をするべきでしょう。
あれもこれも、学内でのいろんな仕事をある特定のできる教員にやらせて、人件費をけちって経営を維持するのは、短期的には大学として得策かもしれませんが、長期的に見たら「よく仕事をする人をすりつぶす速度をはやめているだけ」でしかありません。
非常勤の人にしたって同じで、カリキュラムをひんぱんに変えるようなことをしていれば、非常勤のかけもちで食いつないでいる人は、生活が脅かされてしまいます。
やっぱり、きちんとしたスジをとおして、「そのときそのときの便利づかい」ではない形で、非常勤の人たちの雇用条件を守るための工夫を、各大学の経営陣はするべきでしょう。
なんか、こういう「教員を大事にしない経営」がこのごろ、あちこちの大学の話として見聞きするので、正直、「このままでいいのか?」と思います。
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by gogo0618 | 2007-05-16 11:29 | 私の意見
大学教員の場合、これは国公立(今は独立行政法人になってるところが多いのか。でも、あえてこれで通します)、私立に関係なく、学生に対するゼミ指導や授業などに加え、入試や教務といった各種の学内業務があり、これに加えて研究の仕事があります。
このうちで、拘束時間が比較的ハッキリしているのは、大学に出勤して実際にゼミ指導を行ったり、授業をしている時間と、各種学内業務のうちの会議の時間でしょう。
しかし、例えば家にもちかえって学生のレポートを読んだり、あるいは家で教材の作成をしている時間、学内委員会で提出するための資料の準備をしている時間は、どうなのでしょうか?
これ、実質的には、家のなかに仕事を持ち込んで大学の業務をしているわけで、「労働時間」とみなしてもらわなければ困りますよね。
さらに、自分の研究として、文系の研究者の場合、例えば集めてきた文献を読み込んだり、その内容を整理してノートをつくったりしている時間が家のなかであるわけで、これだって「労働時間」といえなくもないでしょう。
そう考えると、たとえ大学には「週3日~4日」程度の出勤しかしていなくても、実際上はそれ以上の仕事を家でこなしている場合があるわけですよね。
このあたりのところを、各大学の経営陣はどう考えているんでしょうか?
もしかしたらもうすでにどこかでやってるのかもしれませんが、タイムカードで教員の勤務時間を管理している大学があるのだとしたら、「家にもちかえって仕事をしている時間」もカウントして、「ちゃんと超過勤務時間分の賃金払えよ」といいたいですね。
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by gogo0618 | 2007-04-28 20:29 | 私の意見
その昔、たしか缶詰ペットフードのTVコマーシャルだと思うが、「ラベルが変わっておいしくなりました」というせりふがあったかと思う。
イヌやネコが食べるペットフードのCMだから、我々が別に食うわけじゃない。だから、缶詰のラベルがはりかえられたからといって、中身がおいしいかどうかはわからない。
でも、「ラベルが変わっておいしくなりました」と連呼されたら、何か「変わった、新しくなった」というような印象を受ける。
それにしても、「おいしくなった」って、どうやって確かめるんだろう?

昨今の大学改革の中身も、もしかしたら、この「ラベルが変わっておいしくなりました」というような話に近いものがあるかもしれない。
例えば、従来の法学部・政治学部と、最近でてきた「政策学部」などは、どこがちがうのだろうか?
周りから見ていると、既存の法学部や政治学部のなかに「公共政策学科」とか「公共政策コース」などのようなものがあれば、あまり「政策学部」とのちがいはわからない。
ましてや、「政策学部」と、このところあちこちにできている「政策科学部」「政策創造学部」「総合政策学部」「現代政策学部」のちがいはなんなのだろう?
少なくとも、この領域の研究者ではない私にしてみると、他大学の話ではあるが、そのコンセプトのちがいがよくわからない。
となると、各大学ホームページなどを見て、個々の教員の専攻分野などを見て、「これって、法学部や政治学部の『いま風』の名称変更では?」「ラベルが変わっておいしくなりました、というだけ?」という風に思ってしまうのである。
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by gogo0618 | 2007-04-07 11:01 | 私の意見
今日、大手の私立大学のなかには入学式をやっているところもあるようで、先ほど日曜日の昼前のニュースを見ていたら、関西の某有名私立大学の入学式の様子が報じられてました。
で、新入生が今年6千人とちょっといるとか、入学式の会場が超満員だとか、いろんなことを言っていましたね。

で、そのニュースを見ていて、中小の私立大学勤務の私が思わずもらしたのが、「あんたらのところが、こんなにも学生をとるから、小さい大学は苦労してるんだよ~!」というひとこと。
自分らさえ「ひとり勝ち」すりゃいいとばかりに、今あるスケールメリットをいかして、次々に新しい学部をつくる。
あるいは、「寄らば大樹の陰」とばかりに、「大手の有名私立大学でであれば安心」という親たちや、高校の進路指導部などの方針にうまく乗る形で、今まで以上に合格者を出し、入学者をごそっと他大学からとっていく。
こういう大手有名私立大学の「やりくち」によって、中小の私立大学は経営を脅かされている。
そのことについて、大手有名私立大学の経営陣や教職員は、どう考えているんでしょうかね?
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by gogo0618 | 2007-04-01 12:02 | 私の意見
正直なところ、いま、あちこちの大学で少子化の進展・大学全入時代を前に、いろんな改革が取り組まれていますが、その一方で、「研究ができない教員」も増えています。
これは本人に非があるというよりも、次々に大学をモデルチェンジして、とにかく学生募集のことを真剣に考えたり、あるいはまじめに目の前の学生への対応をしていたりすると、研究に向かう余力がなくなってしまう、という原因によるものです。
要するに、本来であれば大学の教員が研究面にエネルギーを割くべき時間などを学内業務に費やす結果が、こういう形で現れている、ということです。

ただ・・・・、その一方で、少々厳しい言い方かもしれませんが、この手の教員に対して、私は別の思いも持っています。
例えば、大学の専任教員ではなく、非常勤講師のかけもちで食っているような人で、毎年なにか論文を書いたり、研究成果の発表をしたりしている人が、私の身近なところにいます。
こういう人を見ていると、はっきりいって毎日どこかで授業をしていないと食えないわけですから、「よくまぁ、研究成果の発表とか、しっかりやってるなぁ」って思います。
また、私の知り合いには、公立の小中学校や高校の教員で、あるいは地方自治体の職員で、いろんな研究論文や本を書いている人もいます。大学の教員のように一応研究に専念のできる時間が確保されているわけではなく、土曜や日曜ぐらいしか時間の取れない人だと思うのですが、それでも、何か書いているわけですよね。
逆にいうと、研究面で「いたれりつくせり」の環境ではない条件下でも、地道にこつこつ、何かを書いている人がいる、ということです。

そういう人たちのことを考えると、確かに大学改革で、あるいは学生募集の仕事で、いろいろ忙しくて大変だという事情もわからなくもないし、私も「忙しいなぁ」と思ったりもしています。ですが、よくない条件の下でも、なんとかそれを「しのいで」、研究成果を発表していけるような道を探っていくことも、そろそろ必要なのではないかな、という気がしています。
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by gogo0618 | 2007-03-25 15:43 | 私の意見
前回書き込んだ話の続きのようなものですが、個別のケースをさておき、「一般論」的に「大学教員の採用って、こういう形態が望ましい」ということを書いておきます。とりあえず「公募編」と、「一本釣り編」に分けて書いておきます。

○公募編
 これがどこの大学でもだいたい「一般的」になりつつありますが、少なくとも、次のような条件で行うのがスジでしょう。

(1)最低限、採用後の担当科目、給与・待遇その他勤務条件(例えば任期つきとか、大学近辺居住が条件とか)、採用時に必要な資格要件(学歴・資格や実務経験の有無、年齢など)、採用選考の方法(書類審査と面接など)が具体的に明記された形で、まずは「公募」が行われること。ちなみに、私立大学で宗教系の場合、その宗派との関係(少なくとも、その私立大学と深い関係にある宗派を否定しない考えの持ち主である、ということなど)も、条件に入れておかないとだめでしょう。

(2)また、その「公募」に際して、「採用後、その教員にやってもらいたい職務」が、なるべく具体的に伝わるようにすること。例えば、「各科目の担当のほかに、教務などの学内業務の負担もある」とか、「実習指導に際しては、学外の実習先をまわってもらうことがある」など。

(3)(2)までの「公募」に際しての条件が明確であれば、実は書類審査や面接もわりと「公平」に行うことが可能。というのも、これらの要件をきちっと満たし、勤務条件にふさわしい人物を書類・面接などから浮かび上がらせれば、候補者の絞込みに結果的につながるから。また、(2)までの条件で気になる点などがあれば、面接の段階で採用する側の大学が徹底的に質問等をして、本人に問いただして解明しておくべきでしょう。

(4)逆に、公募での大学教員の採用に「失敗」するとか、何がしかのトラブルが起こるというのは、この(2)までの条件設定があいまいであるとか、(3)で書いたように面接のやり方が悪いとか、(2)までの条件を守る意思が大学側にはないとか、どちらかというと、採用される側よりも採用する大学側の問題、というしかありません。要するに、「自分の大学でほしい人材を見分ける目がない」か、「採用される側との約束を守る気もないひどい大学」かの、どちらかではないか、と思うわけです。

○一本釣り編
 ここで「一本釣り編」と書いたのは、何らかの事情により特定分野の担当教員がその大学で必要になり、公募によらない方法で他の大学等からきてもらうケースを想定しています。
 ですが、この一本釣り編も、原則的には「公募」と同じ手順をふむべきだと私は考えます。
 例えば、一本釣りで呼んでこようと思う教員に求める職務の内容、担当科目、給与・待遇その他の勤務条件、採用時に必要な資格要件などを、実際に「公募」にかけるくらいのつもりで具体化しておきます。
 つまり、その条件に「ふさわしい」という人物を、今回はどうしても逃がしたくない人物がいるので「一本釣り」で呼んできた、ということ。きっと、「公募」にかけても「この人ならOKになっていたはず」という風に、学内・学外に対してそう思わせるくらいの手順をふむべきだ、という風に考えるわけです。
 そして、この「一本釣り」の場合のほうが、「公募」のように条件を示しての選考でない分、上記「公募編」(4)で書いたように、「自分の大学でほしい人材を見分ける目がある・ない」が明確に問われます。採用したあと、「この人採って失敗だった」というのは、採用した側の大学の「人を見る目のなさ」が、「一本釣り」の場合のほうがまともに出る、ということでしょう。

というような次第で、先日書き込んだケースも含め、大学の教員採用人事にまつわる諸問題は、採用される側の問題というよりも、採用する側の各大学のあり方がまともに問われる、ということだと思います。
要するに、学生募集に際してもこのごろは各大学に「アドミッション・ポリシー」(入学者選考の基準など)の具体化が求められるところですが、教員採用についても同じように、「どういう人材がほしいのか?」というポリシーのある・なしが、各大学に問われているということです。
そして、教員採用人事でトラブルを起こしたり、あるいは「この人採用して失敗だった」というのは、その大学の人事に関するポリシーがなんなのかが問われている、ということではないのでしょうか。
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by gogo0618 | 2007-03-19 08:52 | 私の意見